巡礼日記へのご案内

巡礼日記をご愛読してくださった皆様、数か月の間おつきあいくださりありがとうございました。
そしてこれから読んでみようかな?、巡礼へ行ってみようかな? と思った皆様へ・・
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http://d.hatena.ne.jp/INAHO/20080311

この日記を書いたまぐださん、写真を撮ったINAHO は、あれから、またそれぞれの道を歩き続けています。 このブログサイトは掲載を続けます。 これからも私たちを含めてすべての人々に数々の導きがあることを信じて。

2005年3月27日(日)曇り Santiago de Compostela


熟睡後の、幸せな、幸せな目覚め。曇り空だが、雨は降っていない。  今日はサンチャゴ大聖堂の、ご復活のごミサへ行く。  問題は靴下だ。   全く、乾いていない。   さっき洗ったばかりという感じ。   一体この町の人たちは、どうやって洗濯物を乾かしているんだろう?  我慢して、冷たく重い靴下を履き、我慢してドブ臭い靴を履く。   いやな気分は最初だけで、5分もすれば慣れてしまう。
昨日はゆっくり内部を見られなかったし、聖ヤコブにご挨拶もしていないので早めに出掛ける。   聖堂に着いた時は「地元民のご復活ミサ」の最中だった。  とにかく、大切な「ご挨拶」をしなければならない。
既に長蛇の列が出来ている。  とにかく、並ぶ。   聖体拝領の音楽は、バッハの教会カンタータ147番「主よ、人の望みの喜びよ」。   私が小学生の時、恋するくらい好きになり、楽譜を買った曲だ。   あと5人で、聖ヤコブ像の後ろに入れる。   音楽が「ハレルヤ・コーラス」に変わった。   学校で、毎年クリスマス前に練習した曲だ。  さすがにサンチャゴ大聖堂の聖歌隊は素晴らしい。  明るく力強いコーラスが、胸に響く。
次が私の番だ。 ご像の後ろに入り込むべく、階段を上る。  “Gosh….”   そこにあったのは、黄金の世界だった。   目に入るもの全てが黄金で、大きな宝石もあちこちに散りばめられている。   こんなキンキラキンの中に入るのは、我が人生で初めてのことだ。   ハレルヤ・コーラスが、正面から数え切れない音の波を引き連れて、迫ってくる。   この状況の中に、一瞬にして捕らえられた私の両の目から、涙がボロボロとこぼれた。  そしてしゃくりあげて泣きながら、聖ヤコブの黄金の背中に抱き着いて、「巡礼の目的」を伝えた。   背後には「いたずらしてはイケマセン」と、見張りの神父様がお座りだ。   だが構わず私は泣いていた。   こんな巡礼者をたくさん見ていらっしゃるのだろう、彼はにこにこしていた。   そして順番通り、地下にある銀の棺にお祈りをした。   この時はもう冷静になって、聖ヤコブはこんなにチビだったのか?と思った。

 上:正面中央に鎮座する黄金のサンティアゴ像、巡礼者は像の背後に回り祈る。 

 上:サンティアゴの銀の棺
「地元民のミサ」が終わり、「巡礼者のミサ」の人が入れ替わり始めた。  INAHOさんは大きなお香の「ボタフメイロ」を見たい、ということで祭壇横に座った。   私は正面に座ろうと思っていると、昨日の「ホーリー顔の2人」がやって来た。  昨日のことを覚えていて、話しかけてくれたので、一緒に座ることに。  彼らはとても親切で、英語の「今日の典礼ー英語版」まで見せてくれる。
「大学生?」
「神学校で勉強しているんだ。神父になるんだ。」
やっぱねぇ。。。。

     巡礼者のための復活祭ミサ
ごミサの中で、巡礼者の名前が呼ばれる。  この日は「どこから何国人、何名」という具合に呼ばれた。  「パンプローナから日本人2名!」と言われたはずなのだが、うっかり者の私達は、聞き逃した。  残念。  「マジョルカ島1名」と言われた途端、すぐ後ろの席でおじさんの泣き声が上がった。  振り返ると、オセブレイロ峠で一休みしていた時に「大丈夫?」と声をかけてくれたおじさんだ。  泣きながら「私です!私です!」と言って、オイオイ泣いている。  そう。  皆、本当に心から嬉しい。  私も彼の素直さにつられて、涙が再び込み上げてきた。  今日この場所で、ご聖体を頂くという事実が、私にとっての「奇跡」のように感じた。
この旅は同じ目的地を目指す、数知れない仲間達との共同作業だったと思う。  いつも私は、私自身と語り合いながら歩き、私を取り巻く私以外の外界と交流して在った。  途中で自分を見失うことなく、心落ち着けて歩くことができたのは、思いがけない方法で助け、そして「私という定点」に確実に引き戻して下さる神様が、片時も離れることなく私の中に居て下さったからだ。  イエズス様が諭された、そのとおりに旅人に笑顔で接し助けて下さったスペインの人々。  そして迎え抱いてくれた、大いなるスペインの自然に、心からの友情と感謝をおくりたい。(了)

追記:3年たった今も、この巡礼の機会を与えて下さったINAHOさんとマリエラには、「仲間」としての感謝と思い出が満ちています。
グラシアス・ポル・トード!

2005年3月26日(土)朝から土砂降り「後半」

Arca ---San Anton ---Amenal ---San Paio ---Labacolla ---San Marcos ---San Lorenzo ---Santiago de Compostela 20.1km


「前半」より続く。
「自然の中を歩きながら、自らの内面と語り合う時間」が、私にとっての巡礼だったと思う。  黙想会の静かな修道院の中で、祈りながら過ごす1週間も素晴らしい。  だが落ち着きのない私は、歩きながら、前に進みながら祈ることが、性に合っていたようだ。  こう着状態に陥ることなく、周囲の自然と同様に私の内面も思いも、常に変化を続けた。  一人ぼっちで歩く状態とは、そうした自分の内面の変化を、客観的に見つめる眼が自ずと開かれているようだった。
サンチャゴにたどり着いたから、どうなるのではない。  サンチャゴを目指して歩くその中で、自分自身が何かしらの答え、方向性を見出そうとする。  しかしながら、保証はどこにもない。  必ず「答え」を得るとか、自分の中に「劇的な変化」が起きるといった、保証はないのだ。  幸運であれば、恵みとして与えられる、といった類のものかと思う。  私達が持つ「自分自身を見つめなおしたい」という、欲求。  それが「祈り」に通じるものなのかもしれない。  これがたいそう難しい。  この「神様と私だけ」の時間と空間を歩く巡礼が、私にとっての素晴らしい祈りであったことは、疑う余地がない。
この「長い祈りの旅」のゴールには、壮麗なサンチャゴ大聖堂と聖ヤコブ像が待っている。  その存在の持つ威容さ、深遠さ、豪華さ。  全てを表現する、言葉を私は見つけることができない。  その場に身を置いた時、誰の心も感激と畏怖の思いで満たされる。  建築や芸術が人々の心に与える影響力を思うとき、この「巡礼地」の大聖堂の豪華絢爛は意味を持つ。  少なくとも、私自身には、意味を持った。
「教会があまり豪華なのは、嫌だな」と、以前の私は思っていた。  ところがこの体験から、「大聖堂の在りよう」の意味するところが、ほんの少しわかったような気がした。   たどり着いた先に、貧しい小さな教会がぽつんと置かれていたら、どうだっただろう。   あるいはウルトラ・モダンの鉄骨とコンクリートの教会だったら、どうだったろうか。   私の中ではまだ、区切りがつかなかったのではないかと思う。  あの言葉を失う圧倒的な大聖堂の前に立ち、呆然とする私は、はっきりとこの巡礼が終わったことを感じた。  あの場に立って、大聖堂を見上げたとき、喜びや悲しみといった感情を上回る、圧倒的な何かに包まれ、「この巡礼は、終わったのだ」と納得させられたのだ。
さて、最後の事務処理が残っている。  「巡礼証明書」を貰うのだ。  少し離れた事務所へ行くと、たくさんの巡礼者達が集まって書類を書いている。  2人の若者が話し掛けてきた。  「君は英語を話すの?どこから来たの? 僕たちはポルトガルから来たけど、アメリカ人。」  後ろ姿に向かって、つぶやく。 「あの2人って、空気が神学生かブラザーって感じだなぁ。」
申請書類の質問項目は、いろいろある。  巡礼の目的は各人それぞれだ。私は「宗教と運動」という欄にチェックする。  この書類と、今まで泊ったアルベルゲで押し続けたスタンプ表を提出し、内容が確認されてから「証明書」が出されるというシステム。
  
   左:各地のスタンプが押されたクレデンシャル   右:巡礼証明書
私の知り合いはかつて、フランスからずっと一人で歩き続けた挙げ句、「カトリックじゃない」という理由で、この「巡礼証明書」を出してもらえなかった。  しかし、一緒に居たプロテスタントデンマーク人には、証明書が出されたのだ。  彼は激怒してスペインの新聞に投稿し、掲載されたそうだが、その後はどうなっているのだろう。  カトリックの私達全員には、「巡礼証明書」が出された。  巡礼完了だ。  おめでとう! もう急いで歩き続ける必要もない。  道中助けてくれた杖に感謝をして、事務所の玄関脇に置いた。  何本もの仕事を終えた杖達が、そこで一緒に憩っていた。
マリエラは、明日の朝のフライトでハーグへ戻る。  「今晩はもう、豪華なホテルに泊る!」ことになり、互いの健闘を称え合い別れる。  旅の友との別れは寂しかった。  INAHOさんと私は、最後まで「アルベルゲの旅」を続けることにする。   サンチャゴのアルベルゲは、Seminario Menor。   名前からわかるとおり、かつての大きな神学校の建物だ。   威厳に満ちた建物が、どーん!と丘の上に建っている。   たくさんのベッドが通路を挟んで向かい合い、部屋一杯に並んでいる。  カーテンのない「寄宿」だ。荷物を下ろし、「普通に汚い」シャワーに入り、濡れが少ない服装に着替える。   靴下はもう救いようがないほど濡れている。   とてもはく気になれない。   ふやけた裸足で、ドブの匂いがする靴を履く。
お財布とパスポートだけ持って、セントロへ。   杖がないので丘を下るのは、骨が折れる。   その上、私達は傘を持っていない。   雨と教会と大学の美しい町、サンティアゴ・デ・コンポステーラ。   雨はいつまでも降り止まない。
多くの教会を通り抜け、たどり着いたレストランで祝杯をあげる。   パエージャ、チキン、ポテト、美味しいパンとワイン。   そしてサンチャゴ名物の「タルタ・デ・サンティアゴ」というアーモンドで作ったデザート。   タルタの上には、聖ヤコブの十字架がお砂糖で描かれている。  見るもの、食すもの、全てが素晴らしく感じる。
暗くなるまでまだ時間はあったが、虚脱状態の私達は再び雨の中を濡れながら帰る。今日はゆっくりして、早く寝よう。  1つの教会に差し掛かった時、見たことがある顔とすれ違った。  お互い振り返って「おー!!」  フランシスコ会に心惹かれるイタリア男、フェデリコだった。  今晩のバスでマドリッドに戻り、そこから飛行機でジェノバへ帰るそうだ。  お互いが無事にサンチャゴに到着したことを祝い、一緒に写真を撮る。
雨の中をダラダラと丘を登って、アルベルゲに帰還。   ベッドの上で座禅を組んでるフランス人の居る部屋へ戻る。   雨空が夕焼けに染まりゆくサンチャゴ市街が、ベッド脇の窓から一望できる。   遠くからは、太鼓とラッパで行進する音が、かすかに聞こえてきた。  よく目を凝らすと、市内の通りを、強い1つの光とそれを取り巻く群集が行進している。   あの光の中を、イエズス様のご像が進んでいるのだろう。   目の前でご像を見られなかったのは残念だが、サンチャゴ大聖堂のシルエットを戴く夕暮れの中を、進む光となって私の中までいらっしゃったイエズス様は、言葉もないくらい美しかった。

アルベルゲ:5ユーロ


アルベルゲSeminario Menor からの眺め

2005年3月26日(土)朝から土砂降り「前半」

Arca ---San Anton ---Amenal ---San Paio ---Labacolla ---San Marcos ---San Lorenzo ---Santiago de Compostela 20.1km

何ということだ。  朝から、バケツをひっくり返したような、土砂降りだ。  歩き続けた26日間中、サンチャゴに到着する最終日が、最悪の天気だ。  強い雨が地面と木々に当たる音が、部屋の中まで響いている。  空は完全な鉛色。  軽くパンをかじってから、全員がポンチョを着て出発する。  昨日、ベットに干しておいたシャツと靴下が、まだ乾いていない。  仕方なく、そのままビニール袋に入れてリュックに押し込む。
今日20キロ歩けば、目的地のサンチャゴに到着するのだ。  私達はこの26日間を、サンチャゴに向かって、ただひたすらに歩き続けてきた。  その待ちきれない気持ちと、やりきれない天気の2つの要素が、私たち巡礼者の内面のバランスを崩してしまっているようだ。  皆一様に難しい顔をしていて、話し声も聞こえない。  降りしきる雨と風に抵抗しながら、黙々と歩く。  自分達に与えられた課題でもあるかのように、必死に歩く。  この期の、この天気に及んで、今までのような自然を楽しむ余裕もなく、黙想的な状態に陥ることもない。  とにかく耐える。  忍耐だ。  ポンチョを着ていると、前が良く見えない。  袖口からは、容赦なく雨が入ってくる。  顔も既にびっしょり濡れているが、いちいち拭く余裕もない。  顔面に雨を滴らせながら、文字どおり歯を食いしばって歩き続ける。
ついに、今まで頑張ってくれた靴が浸水し始めた。  靴の中は洪水。  歩くたびに、水音がする。  靴下もぐじゃぐじゃだ。  不快度100だが、止まるわけにはいかない。  なぜなら止まっても屋根はなく、替えの靴下も靴もないからだ。  人生には「つべこべ言わずに、進まなければならない」状況が、あるらしい。
先にレストランが見える。  迷わず直行する。  中はぐちゃぐちゃの巡礼者達で、一杯だ。  皆この「ご復活の週末」に向けて、歩いているのだ。  紅茶とマグダレーナで暖をとり、トイレに行く。  雨降りの日は、屋外トイレというわけにもいかない。  店内では、サンチャゴTVのカメラが取材をしている。  今日の嵐は、待てば止むという種類のものではないのが、一目瞭然だ。  皆、一休みしてから、次々と嵐の中に戻っていく。  我々も再度意を決して、雨の中を出発する。

      TVインタビューを受ける巡礼者
ユーカリの森を抜け、何の変哲もない道を歩き続けると、左にサンチャゴ空港が現れた。帰りはここから、飛行機で一っ飛びだ。  昔の巡礼者達は、めでたくサンチャゴに到着した後、再び歩いて帰ったわけだ。  目的を果たした後の方が、気が抜けてしまって危険ではなかったかと、余計な心配。  途中に巡礼者の記念碑。  しかし嵐の中、誰も立ち止まらない。  もう袖口から肘にかけて、シャツはビショビショだ。  杖を握る右手も、雨に濡れ続けて、ふやけてきた。  おそらく両足も、ふやけている。

       最終日は朝からどしゃ降り
一体なぜ、最終日にこんな天気を神様は選ばれたのか?と、歩きながら思う。  すると、一つの情景が浮かんだ。  大学の先生が、私に無常に言い渡す。
「取り忘れてた単位は、最後にまとめて取ってもらいます。」
勉強嫌いだった私にとっては、非常に現実的な情景だ。  この最終日の嵐は、私の取り忘れた単位だったのかぁ、だったら取らなきゃ仕方ないなぁ・・・と妙な納得をしながら、ヨロヨロジャブジャブと歩き続ける。
キャンプ場の脇を抜け、最後の丘Monte Gozoに到着する。  ここも有名な、巡礼の巨大モニュメントがある。  そして晴れていれば、ここからサンチャゴの町が一望できるらしい・・・が、大雨なので論外。  それでも皆、一応モニュメントの下まで行き、踵を返して先を急ぐ。  そして地図上で、一番最後となるアルベルゲに到着する。  このアルベルゲは、アメリカの大学の寮のようだ。  殆どすべての施設が完備しており、カフェテリアも巨大。  1年中オープンしていて、800の2段ベッドを備えているらしい。  雨からの避難も兼ねて、再度ここでもお茶をする。  ポンチョを脱いで荷物を下ろすが、身体全体が濡れているため、椅子に座ると非常に不快。  だが、あと5キロ歩けばサンチャゴ大聖堂に到着だ。
午後になっても、まったく雨足が弱まらない。  太陽も顔を出さない。  天気の不平は100%捨てて、歩くことだけに専念する。  不思議なことに、サンチャゴ市内に入ると、矢印がまったくなくなってしまった。  どこをどう進めばいいのか、皆目見当がつかない。すぐそこに大聖堂があるような気がして、心が焦り早足になる。  1列になって進む私たちを、バスの中から人々が見ている。  170センチのマリエラ、160センチのINAHOさん、153センチの私。  自ずと歩幅に差が出る。  嵐の中、真っ赤なポンチョで杖を持ったチビが、足を引きずりながら猛烈な速さで歩いていれば、誰だって注目してしまうだろう。  こうして文字で書くと悲壮感が漂わなくもない。  が、実際のところ、この時点での私は妙な高揚感に満ちており、「やってやるぜ。 うはははは!」 と心の中で不敵に笑っていた。  他人のことは、外側からはわからない。
水溜まりの中を歩き、何度も道を聞いた挙げ句、とうとうサンチャゴ大聖堂前の広場に到着した。  マリエラは雨の中を踊り、INAHOさんは写真を撮り、私は無言で周囲の人々を眺めていた。  あちらこちらで、人々が抱き合っている。  近くに居た若者に、3人一緒の写真を頼む。  すると、ほんのつかの間5分ほど、大雨がパタと止み、お日様が出た。  私たちは笑顔で写真を撮ることができた。  心から神に感謝。

続いて長い階段を昇り、聖堂の中に入る。  巡礼者が到着した時にやるべき手順があるそうで、私はガイドブックを見ながら進んだ。
1)入り口「栄光の門」の大理石の柱に、手をつく。 ここには長年の巡礼者達の、5本の指跡が残っている。
2)Santo dos Croques のご像に、おでこをつける。
3)祭壇後方の、金ぴかの聖ヤコブ像の背後に入り込んで、ハグをする。
4)地下にある、聖ヤコブの銀の棺の前で祈る。
私はポンチョ姿で、雨を滴らせながら1)と2)までとりあえずやった。  しかし濡れ鼠で、身体が冷えて震えがきている。  靴の中が洪水状態で、歩くたびにジャブジャブいう不快感で、とても落ち着いて祈る気持ちになれず・・・・3)と4)は翌日にすることにした。  INAHOさんは、既に頼まれて持ってきた「ご絵」を、聖ヤコブ像にペタ!と当てて、祈ってきたそうだ。  今になって振り返ると、この時の「私」は、なんとも可笑しいヤツだ。  あれほど苦労をして長い距離を、1ヶ月近く歩いてやっと! 到着したはずだ。  それが「とても祈る気になれず、翌日にする」とは・・・!?

            • 後半へ続く。

2005年3月25日(金)曇り後、雨後、虹

Arzua ---Cortobe ---Pereirina ---Calle --- Boavista ---Brea --- Santa Irene ---Arca 19.2km



    この日の朝食、マリエラの買ったパン、まぐだが買ったオレンジジュース、INAHOのお気に入りのチーズ。 
昨晩はアルベルゲのベッドが満員で、隣の床にも人が寝ている状態だった。  だが、睡眠不足が極限状態に達していたため、一度も目覚めずに熟睡した。  今晩、アルベルゲに泊まれば、次はサンチャゴに到着だ。  気分を一新して、3人揃って出かける。  相変わらずの曇り空だ。  時々突然に、バラバラと雨が降り出し、急いで雨宿りをする。
思えばこの巡礼の旅を始めてからは、今までの人生では使うことのなかった「勘とか予想」を、フル回転させてここまで進んで来たように感じる。  特に一人で歩いていた間は、「背水の陣」どころか「崖っぷち」という具合だったので、私には珍しいくらいの真剣勝負の日々だった。  この真剣勝負は常に道路やお天気といった外的環境がが変化し、私自身の内面も何かしらクルクルと変化し続けている、非常に忙しい時間だった。  瞬間瞬間が、初めての状況、初めての決断といった、トライの連続だった。  自分の知識やかつての経験に固執したり、頭で理由付けをしようとすると、実際には意外と間違えることが多かった。  反対に真剣に「勘」を働かせると、何事も上手くいったように思う。  常に新しい感覚で見て、感じて、取り組むことができれば理想的、というわけだ。
夜ベッドに入る前に、子供の頃からの習慣の「お祈り」をする。  神様に今日の一日を報告して、明日の無事をお願いをする。  この簡単なお祈りが、結構効くらしいのだ。  どんな状況でどんな場所にいても、眠る前のお祈りで、記憶がたどれる限り昔から存在している「私という定点」に戻る。  この別に深みも何もない「子供のお祈り」を通して、環境に左右されていない一番原点の自分に帰る。そして翌朝には新しい日が始まり、1つの事故も1つの悪事も起こることがないのであった。
私の左足首及び右膝は、この数百キロの間になんとか歩く方法を体得したが、INAHOさんの足のマメは、歩けば歩くほどひどくなっている。  途中にバールが出てくると、INAHOさんが追いつくのを待つことが多くなった。  この日は自転車の巡礼者達が、何人も追い抜いていった。  そして午前中だけで、2つの巡礼者の墓標及びメモリアル・オブジェを通過した。  その一つはまだ新しい、ブロンズで作られた「履きくたびれたトレッキング・シューズ」だった。  この場所で68歳の男性が亡くなったのだ。  残りの30キロを歩けばサンチャゴに到着する、この場所で。  彼の無念は、如何ほどだっただろうか。  その彼の想いを伝えるかのように、家族が彼の靴のオブジェをその場所に置いた。  そして私達巡礼者は彼を想い、彼のために祈る。  そして彼に、私達を守ってくれるようにとお願いする。
雨が降ったり止んだりする中を、ユーカリの森を歩き続ける。  あと少しでアルベルゲに到着のはずだが、一向にそれらしきものが見えない。  一緒に歩いていたスペイン人男性が「こっちだ。」と言うので、ついて行った私達。  「本当にこっちなの?」と聞くと、「いや、行ったことないから知らん。」そうこうするうちに、再び嵐が到来。  ポンチョを着て、もと来た道に戻る。  自分達だけで、もう一度アルベルゲを探す。  すると、あった。  やはり他人任せにしては、いけない。
雨を滴らせて玄関に入ると、「ベッド、ないよ。」と係のおじさんが言う。  「本当?あるわよ。  私、知ってるもの。」 と笑って言い返したところ、案内してくれた。  何なんだ、一体?
シャワーは「問題外に汚い」のでパス。  洗濯も今日の嵐で全てが濡れているため、自動的に不要となった。  ぐじゃぐじゃのシャツと靴下をベッドに干し、濡れていないものに着替え、遅いランチに出かける。  巡礼者向けの、レストランとバールがたくさんある。  ガラス張りのこじゃれたレストランに入る。  窓一面が、山と空の景色だ。  さっきの嵐とは、うって変わって晴れてきた。  そして、なんと!虹がかかった。  思わず3人、ワインで祝杯をあげる。
今日は聖金曜日だが、とにかく明日が体力勝負の最終日だ。  最後のエネルギーを頂くために、申し訳ないと言いつつ「チキンとポテトとサラダとワイン」を頼む。そして最後に、この店名物の巨大なアイスクリーム・パフェまで突進してしまった。
今日のアルベルゲは、100の2段ベッドが装備されている。  200人宿泊可能だが、既に満員。  多くの人が、床にマットを敷いて寝ている。  案の定、夜中に目が覚めた。  別々の音階の、3つのイビキが轟いている。  その上、興奮した若者グループが、ゲームをやって騒いでいる。  何度かスペイン語で叱責するおじさんとおばさんの声も混じったが、若者達はへこたれない。  明日も寝不足だ。


アルベルゲ:寄付

2005年3月24日(木)晴れ

Melide ---Boente ---Ribadiso ---Arzua 14.1km


少しうとうととした頃に、周囲が突然慌しくなった。 時計を見ると6時。  部屋のメンバー達が身支度を整え、出発し始めたのだ。「???」と思いながら、やっと深い眠りに落ちた。  そして8時。  INAHOさんに起こされた。
「7時に来たけど、石のように固まって眠ってたから、起こさなかった。」  そりゃあ、そうだ。  マリエラは、朝から文句が止まらない。  「今日のアルベルゲも、彼女と一緒だったらどうする?」  「絶対に同じ部屋では、寝ないわ!」  「同じアルベルゲにならないことを祈って、歩きましょう。」
今日は14キロと、比較的短い距離だ。  寝不足でも、不安が少ない。  そして大人数が同じ道を進んでいるため、妙な高揚感もある。 天気も快晴だ。  ユーカリの林を抜けて進む間に、全身の内側が消毒にされたような気分だ。  お天気が良いので、子供達も大いにはしゃいでいる。  大声で歌いながら進むグループや、その歌に合わせて持っている杖をバトンにして行進していく子供達。  なんだか子供の頃に読んだ童話(再び「ハメルンの笛吹き」)のような光景。

      巡礼者が多くなってきた。 道が歩きやすくてほっとする。
途中のバールで、足の裏の激痛に耐えつつ歩いているINAHOさんを待つことしばし。  追いついた彼女と3人、コカコーラを飲む。  どういうわけかコカコーラを一缶飲むと、その後1時間はものすごいエネルギーで歩き続けることが可能なのだ。  「ウナ・コカコーラ=ドス・キロメトルスの法則」と、3人で命名する。
再び農道を抜け、丘を越え、町に入ってから車道を歩き続け、目指すArzua のアルベルゲに到着。  受付が始まるのは午後2時からだが、すでに多くの人たちが順番待ちで建物の前に座っている。  親切なスペインの少年が、英語で列の最後尾を教えてくれた。  マリエラと私も3名分のベッドを確保するため、座って待つ。  すると「恐怖の館」のおばさんと、その夫が登場した!   彼らもやはり、このアルベルゲに泊まるのだ。  ベッドルームが複数あることを祈る。  彼方からヨロヨロと歩くINAHOさんが、やってきた。  そしてその後には、デイブもやってきた。  今日はもっと先まで歩くそうだ。  「サンチャゴで会おう!」と言って去っていったが、彼にはもう会うことがないだろうと、何故か思った。  埃をかぶった古い写真のような彼の笑顔に、生気が戻るのはいつのことだろうか。

       混雑時、ベッドは早い者勝ち。 朝、早めに出て、早めに到着が鉄則。 開くのを待つ。
アルベルゲのドアが開いた。  順番でスタンプを押してもらう。  部屋分け係のおばさんが、マリエラに向かって「3名?あっちの部屋!」 と示したところ、マリエラが憤然と「いいえ!こっちの部屋!」 と言い返した。  その迫力によって私達は「こっちの部屋」 になった。  マリエラは「恐怖の館おばさん」が、「あっちの部屋」に入ったのを確認していのだ。  彼女のおかげで、この夜は普通のイビキの中で眠ることが出来た。  普通に汚いシャワーに入り、洗濯をしてから、揃ってピザ屋にランチに行った。  大きなピザを、それぞれが1枚ずつ頼んだ。  テーブルの上はたいへんなことになってしまったが、皆、ぺろりと平らげた。

      満員のアルベルゲの部屋。 床にも人が・・・・
夕方からは、それぞれが思い思いに過ごした。  私は隣のthe original AugustinianChurch of La Magdalenaでスタンプをもらい、町内を散歩。  立派な門を持つ、大きな館。  塀の穴から、その荒れ果てた庭が見える。  スペインの長い歴史の中で、様々な戦いがあったことを思い出す。
Iglesia de Santiagoの今日のごミサの時間を確認しに行ったところ、すでに人が集まり始めていた。  もう既に席がない。  後ろに立っていると、立派な行進が始まった。  今日は聖木曜日なのであった。  満員の教会から、酸欠気味でアルベルゲに戻る。  寝不足が続いていたので、パンをかじって8時に就寝。



アルベルゲ:寄付

2005年3月23日(水)曇りのち雨

Eirexe --- Mamurria --- Palas De Rei --- San Xulian --- Lobreiro --- Furelos --- Melide 23km


例のお店で、朝食のおいしい紅茶とおいしいマグダレーナ(マドレーヌ)を味わう。  大いに気に入ってしまった「ヴァルデマールの甥っ子の店」。  宝箱の中に居るような気がして、嬉しくて仕方がない。  しかし、人間というか、動物の身体というのは、本当にたいしたものだと感じる。  私の負傷した足首のことだ。  当初はどうなることか?!と思っていたが、心配する余裕もなく毎日20キロ近く歩いているうちに、なんとかなってしまった。  完治したわけではない。  足首が腫れて曲がらない状態でありながら、タッタカ歩く方法を身体がいつの間にか見つけ出していたのだ。(帰国後のリハビリで完治後は、もちろん通常の歩行に戻った。)
今日は23キロを歩く。  先に出発したINAHO・マリエラ組には、途中で追いつく予定になっている。  今、一番負傷に苦しんでいるのはINAHOさんだ。  体調と負傷の具合は、行程の中で持ち回りのように入れ替わっている。  小さな村の中を抜けて、お墓で一杯の教会の前を通る。  歩き続けて「ロザリオの丘」に到着。  ロザリオをする余裕もなく丘を下り、車が増えてきた道路を辿ってPalas de Reiに到着。  Iglesia San Tirsoの教会を抜けて、歩き続ける。  昨日ゆっくり休んだおかげで、心配だった右膝に痛みがない。  人差し指も、なんとか杖を握れるくらいになっている。
爽快な気分とエネルギーで歩く。  すると、前方に二人の姿が見えた。  追いついて、路上で一緒に休憩していると、突然雨が降ってきた。  もう慣れっこになった、ガリシアのにわか雨だ。  協力し合ってポンチョを着る。  そのまま歩き続けるが、一向に止む気配がない。 予想に反して、どんどん強くなる一方だ。
しかし「救い」が現れた。  地図にはなかった農家のアルベルゲ+バールを発見。やっとの思いで駆け込む。  その内部の素晴らしいこと!  農家そのものを、美しい舞台に仕立てたような空間だった。  アルベルゲの隅には「昔の農家博物館」がある。  昔の農機具や家庭雑貨を展示していて、かわいらしい。   炎が燃える大きなストーブにあたり、暖をとる。  窓越しに、嵐に荒れ狂う野原を眺めながら、静かに紅茶を飲む。  何だか心の深い部分が、呼吸をしているようだ。
ガリシア地方は、ケルト文化の流れをくんでいる。  まるでアイルランドの伝統音楽のようなものがかかっていた。  「宿帳」を見せてもらう。  中には日本人の書いたものも多数ある。  ガイドブックに載っていない、この素敵なアルベルゲに泊まった、幸せな感想を思い思いに記していた。  次回はこのアルベルゲに泊まろう!などと、半ば本気で話し合う。
一時間ほどで、嵐が小雨になったので出発する。  つまらない工業団地の前の道を、3人列になってダラダラ歩く。  途中から林に入った。  今までとはうって変わって「ユーカリ」の大木の林だ。  薄膜で覆ったような薄緑色の美しい幹が、空まで一直線に伸びている。  そして、特筆すべきはその芳香だ。  本物のユーカリの香りを、初めて知った。  なんとも爽やかな、身体に良さそうな匂いだ。  雨上がりの空気の中を、音をたてて香るかのようだ。
INAHOさんは両足のマメが潰れて、状態は最悪。  口をきくどころではない。お昼にはMelideのアルベルゲに到着した。  130ベッドを有するこのアルベルゲも、すでに満員に近い。  何とか寝床を確保したが、シャワーは恐ろしく汚かったので中止。  
この日のランチは、メリデ名物の「蛸料理」だ。  セントロにある蛸屋さん「 Pulperia Ezequiel 」の大きな店内は、地元民と巡礼者で一杯だ。  蛸のぶつ切りを茹で、オリーブオイルをかけて、パプリカをふっただけの料理。  それにおいしいパンとワイン、茹でたジャガイモがつく。  シンプルだが、おいしい。  お客さん皆がご機嫌で、私たちも知らないおじさんやおばさんと一緒に写真におさまる。  陽気な話し声と笑い声で満ちている。  満腹になって、聖週間の飾り付けがされている町の中を帰った。
午後のひと時、ベッドに座ってくつろいでいると、荷物を背負った「デイブ」がやって来た。  懐かしい顔だ。  既に空いているベッドがない、らしい。  「まあさ、女の子達のベッドがあって、良かったよ。」 と言って去って行った。  ひどく疲れた顔だ。  INAHOさんの部屋には、この巡礼中で初の「日本人」が2人いるそうだ。  1名は脱サラの若者で、もう一名はドイツ留学中の学生で春休み中。  久しぶりの日本語で、INAHOさんは彼らと盛り上がっている。  マリエラと私は、暇つぶしにセントロのバールへ行ってみる。
店内には、私が足の痛みで道に座り込んでいたときに、優しい笑顔で声を掛けてくれたスペイン人家族(パパ、ママと小学生の娘2人)も偶然来ていた。  少しおしゃべりをする。  物静かで、とても礼儀正しい一家だった。  紅茶とマグダレーナを頼む。  今の私は「スペインの甘いマドレーヌ」の大ファンだ。  マリエラが、お店の人からゲームを借りてきた。  簡単なダイヤモンドゲームのようなもの。でも、結構面白い。  彼女はハーグの友人達と、週末にカフェに集まって、ゲームをするサークルを主催しているそう。  ゲーム類に目がない。  しかしビギナーズラックで私が8戦全勝という成績を修め、彼女がここのお茶をご馳走してくれた。
タコでお腹がふくれてしまったので、夜はパンを少しかじって8時に就寝。ところがこの夜は「恐怖の館」と化した。
今日のアルベルゲは、一部屋に16個の二段ベッドが置かれている。  要するに「32人部屋」というわけだ。  皆が寝付いてから、一人のおばさんが深刻な「睡眠時無呼吸症候群?」を患っているらしいことが判明した。  5分に一度は形容し難い大イビキと、深すぎる深呼吸と、それに伴う「ピュ〜!」という叫び声が上がるのだ。  そしてその状態が、途切れることがない。。。。部屋は真っ暗で、窓からの月明かりだけが内部を照らしている。まさに恐怖の館になってしまった。
1時間も我慢した頃、マリエラがやって来た。  「起きてください。あなたはうるさすぎます。  他の人たちが眠れません。」 さすがは国際都市ハーグで、法律の仕事をしているだけある。  「よくやった、マリエラ。」と心の中で喝采を叫ぶ。  しかし、10分後には再び「恐怖の館」に戻ってしまった。  再びマリエラがやって来て、今度は大きな声で怒鳴った。  「他の人たちが迷惑です!あなたは公共の宿ではなく、お金を払って個室の宿に泊まるべきです!」 彼女の言い分はもっともなのだが、すでに夜も更けており、加えてこのおばさんは英語がわからないらしく、夫と笑っている。  夫の責任なのではないか?  何故なら眠っている本人は自覚がない。  「あなたの妻を、病院に連れて行くべきです!」と言ってやりたかったが、その気力もなく、仕方なく寝袋を持って、部屋の外に出た。
ラウンジにはもちろん常夜灯がなく、トイレを探したあの夜と同様の「ぬらりとした闇」ばかり。  たしか角にソファーがあったと思い、手探りでソファーに寝る。しかしドアの向こうから、「恐怖の叫び声」が聞こえてくる。  闇の中で、彼方の叫び声を聞くのは、何とも耐え難い気持ちの悪さだ。  うるさくても、部屋の中で我慢しているほうが良い。  しかたなく、再び部屋へ戻る。  もちろん耳栓は最初からしているのだが、意味がない。  マリエラも観念したらしく、3度目の抗議には来ない。  最後に時計を見たのは、午前3時だった。



アルベルゲ:寄付